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銘菓誕生物語

かもめの玉子誕生秘話

チリ地震津波をきっかけに

賞品に採用され、知名度広まる

齊藤俊雄の像

かもめの玉子の発案者
齊藤俊雄の像

初代の「鴎の玉子」は昭和27年から売り出されました。味の評判もまずまずで、売れ行きは順調でした。そんな昭和28年5月のこと、地元大船渡で市制記念行事が開催され、ミス大船渡選出のイベントが行われました。「鴎の玉子」はこのイベントの賞品として進呈されました。

すると、このことがきっかけで、たちまち地域の評判になりました。店には連日たくさんのお客さまが訪れ、「鴎の玉子」は売り切れ状態が続きました。従業員も12人に増えました。しかし、まだこのころの齊藤菓子店は、経営基盤が脆弱でした。技術もなく、資本もないうえ、経営の指揮をとる俊雄は体が弱く、たびたび入退院を繰り返していたからです。

店の将来に不安を感じた従業員達は次々とやめていきました。経営は窮状状態におちいり、商売もおぼつかなくなり、とうとう「鴎の玉子」の製造も休まざるを得なくなりました。「齊藤菓子店」は、再び家族で細々と大福やがんづきなどを販売することになったのです。

チリ地震津波をきっかけに

齊藤菓子店が再び「かもめの玉子」の製造に着手するようになったのは、昭和36年のことでした。その前年5月24日、大船渡など三陸沿岸は、チリ地震津波で歴史的な大被害を受けました。町は壊滅状態になり、齊藤菓子店も流れてきた家が頭から半分突き刺さり、ほぼ全壊状態の被害を受けていました。

齊藤家は、一家で再建に立ち上がることになりました。将来は自分の道を進むために盛岡の警察学校で学んでいた長男俊明も、古里に帰ってきました。家族は協力しあい、チリ地震津波から2カ月半後の昭和35年8月、商売の再開にこぎつけました。やがて一年が経過したころ、俊雄は親戚から助言を得ます。

「あれからいろいろと商品をやってきたようだが、この機会にもう一度『鴎の玉子』をやってみたらどうだ」 俊雄はその助言を受け入れました。だが、俊雄は根っからのアイデアマン。以前のままの商品をそのまま発売することを潔(いさぎよ)しとしませんでした。「もっと立体的で、本物の玉子のような形に近づけようじゃないか。味も今の時代が求めるものにしよう」

最初の玉子は、カステラのまんじゅうを鉄板で焼いたものでした。そのため、下がへん平状態になっていて、上半分だけが玉子型というまだ不完全な形だったのです。